75cはフォトスタジオだけど
きっかけや出会い、空間すべてが大切だから
その想いを綴って行こうと思います。

日々変化。
2023年、リスタート。

〜今日もたくさん、話そうよ〜 
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13. 4月1日

2010年、4月1日。

ライフスタジオ恵比寿店、オープン日。

決意して
準備して
いっぱい泣いて
いっぱい悩んで
それでも、なんとかかんとか、オープンの日を、迎えた。

家から歩いて出勤。
4月はまだ、寒い。

だけど
あの日の朝のことは、割と鮮明に、覚えてる。
とても、風が強く吹いてた、朝。
お天気もよくて
電話をしながら、店舗に向かった。

朝一番に出勤をして
いつも一緒にいたスタッフたちと顔を合わせる。
なんだかスタートのときって、意味もなく照れくさかったりする。

すでにオープンパーティーをしたりしてたから、特にこの日が特別!ではなかったのかもしれないけど
やっぱりオープンの日は、何かがちがくて、ドキドキした。

今となってはそうだっけ???と思うけど
最初の3ヶ月間くらいは、すぐに予約が埋まらなくて
4月だからどこの店舗でもそうだったけど
女の子しか撮らないとか
七五三は撮らないとか、そういう理由で予約が埋まらないのかな・・・・とか
いろんなことを、日々考えた。

お花もいっぱい届き
なんだか、くすぐったい気持ちでいっぱい。

お花を贈ってくれた人たちとのいろんな日々を思い出したりして
それくらい
人には、時間を割いてきた。
とても、大切な時間を、たくさん共にしてきた。
そんな人たちの思いを、感じたからだったのだと、思う。

4月から、7月までは
土日の2日間、店舗で撮影に入った。
久しぶりの店舗。
久しぶりの、撮影。

ワカコ店長と、足立さん、妙子、私の4人での、スタート。
新しい試みをたくさん、はじめて
試行錯誤の毎日。
すぎてしまえばあっという間で
ああ、そうだったね
あんなこともあったね・・・・なんて、笑って話ができるけど
そのときはいっぱい怒って、いっぱい泣いて
いっぱいいっぱい、悩んだ日々。

スタッフが新しく入ってきたり
新松戸のオープンが決まって自分が抜けたり
今まで1年半。1年と、5ヶ月か。とっても、いろんなことがあった。

経営者になって、学んだことはきっととてもたくさんあるのだけど。
私が一番学んだこと。

自分が部下としてできていた部分と
全然だめだった部分が、とてもよくわかるようになったこと。

学んだというよりは
わかるようになったと、言った方がいいのかな。

きっと生涯悩んでも答えがでなかっただろうな、と思う、その部分は
私には、とても大きな気づきだったように思う。

社長の言葉が、心に響く。
いまさらだけど
社長からの大切な言葉が、たくさん、思い出される。

私は、自分が経営者になってはじめて
社長からのたくさんの言葉が、実感できるようになった。
恵比寿店を出して、一番、価値があったと思ったことは、たぶんそこ。

時間は、すべての人に同じように流れていて
すべての人に、平等なのは、もしかしたらそれだけなのかもしれないなと、思うことさえある。

その時間を
どう過ごしていくのか?
どう使っていくのか?

いろんな事を、犠牲にしてきてるように思ったり
悩んだり
そんなことの繰り返しなんだけど
人生は、そんなに悲惨なものではないと、思う。
きっとそんなことを
はじめて実感できる、そんなきっかけ。
それが、恵比寿店のオープンだった。

休みの日
何かのときに突然店舗に寄ったりする。
だれもいない昼間の恵比寿店。
夜の、恵比寿店。

私は、あの場所がとても好き。
自分の思いが、全部詰まってる場所だから。
そんな場所が増えていくこと。
それが、私の人生を、もっともっと豊かにしてくれるのだと、思う。

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12.恋するマドモアゼル
2009年に恵比寿店のオープンを決意し
引継ぎと
それからこれからの新しい店舗のためのいろいろな準備をしていった。

その中で
11店舗目になる恵比寿店を、どんな店舗にしていきたいのか?を
ひたすら考え、イメージする日々が続いた。

私が作りたい店舗の形。

イメージしていく中で具体的なモデルのような、そんな存在が頭をよぎる。
こんな人に、お客様としてきてもらいたい・・・・

そこからはイメージの広がりが、早かった。
だからどんどんスタッフたちに話をした。
そしたら
スタッフたちとの会話の中で、さらにいろんな決意ができた。

女の子専門スタジオ。
恋するマドモアゼル。

最初は恋するマダムだったんだけど
マダムだと、すごいご年配の人を想像するといわれ・・・・
マドモアゼルに変更(笑)

男の子は撮らない。
それから
七五三も、撮らない。
だって、イメージはマドモアゼル=パリジェンヌだから
着物が似合うクローゼットを作り出すことができないから・・・・
そんな理由だった。

それだけじゃない。
スタッフたちの仕事を極力簡素化したかった。
美容スタッフがいればいいけど
一緒に働くスタッフたちには美容が専門でできるスタッフはいない。
他の店舗だって着付けとか美容はいつも外注でお願いをしてる。

その手配とか
その労力とか
そういうのをなくしたかった。だから、抜いてしまうことにした。

すごく新しい試みで
それで予約がうまるのかどうかも心配だった。
お客様からの不満の声も出るだろうなと思った。

だけど
私はお客様のニーズすべてにこたえていくことはできない。
それに、スタジオの予約そのものがマックスの人数が決まっているだけに
どうやったってひとつのスタジオで増やせる最大数を超えてしまうのに
より専門的で
よりこだわりの強い、そんな場所を作りたかった。

ここで、撮りたい。
ここの、コンセプトが好き。

そんなお客様に来てほしいと思った。
だから、そう決めた。

決めてからはいろんなことが早かった。

ずっとためていたスクラップを掘り起こし
不動産の図面を見ながらコンセプトを決めていく。
今までやりたいと思ってたことがたくさんあっただけに
統一感を出して、イメージを落とし込んでいく・・・・・

何度も店舗に足を運んで
そこでぼーーーーっと、イメージを膨らませたりした。

不動産が決まるまでも、いろんなことがあって
そんなに簡単ではなかったんだけど、必死だった。
とにかく必死。
いつもと、他の店舗のときとそんなに大きく変わることはないはずなのに
すべてにおいて、私が決定をしなくちゃいけないこの、プレッシャー。
自分で想像している以上だったから、自分でもびっくりした。
だけど、それが普通。
きっと、だれでも通過している普通のことなんだと思う。

独立することの意義というかなんというか
社長の下で何かを提案してきたときとは、全然違うんだということを
不動産契約のときに初めて感じることになった私。

そんなことの積み重ねできているのだと思う。

2月からインテリアをはじめ
4月1日にオープンすることが決まり
始まってしまったら、もう後にはひけない。
そして、
始まってしまったら、ゆっくりと考える時間はないことは、知ってた。

だから、
決定してから始まるまでの数ヶ月が、本当に大切だったんだと思う。

準備をすることは決まってる。
何度もやってきた。
だけど
何よりも大切なこと。
それは、私が初心にかえったとき、本当に思い出すべきものが何なのか?
私はいったい、何を思うのか?

その部分が、私の中で明確であれば
きっと大丈夫なのだと、思ってた。
だから、自分を安定させることが、とても重要だった。

2010年に入り
1月に、パリに行った。
初めてのフランス。
6泊7日だけど、ノープランのパリ。

一緒に行ったメンバーも
なんとなく、成り行きで、一緒に行くことになって。
そんなスタートがなおさら、パリ旅行を特別なものにしてくれた。

フランスの女の子をイメージして作る店舗。
フランスに行って、見て、感じたこと。
たぶん、うわべでしかない、最初の旅。
だけどそこで感じた私のインスピレーションみたいなものは
きっと、あのタイミングであったからこそ、可能だったのだと思う。

そんな風に
自分の決定と
自分の行動と
それから、自分のこれからつくっていくものが一致している感覚を
自分で決めていけるということ。
それが、私の得た、最大のメリットだったのだと思う。

まだどうなっていくのか決まっていない中で買い付けた、小物や衣装たち。
私のこだわりと
私のシュミだけで集まってきたそれらは
恵比寿店のいろんな場所に、準備されていたかのように、しっくりと、はまっていった。

誰になんと言われようと
私が、そう感じている
とてもとても、大切な、ものたち。
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11.私の中の変化

いつからだったのか、私は仕事をしながら‘楽しい’と、思わなくなった。
思わなくなったのか、思えなくなったのか
何に不満があるのか
何が不安なのか
何が変わったのか
自分では、全然よくわからなかった。

会う人会う人に、仕事が楽しいなんてうらやましいと、いつも言われた。
私もそうだなと思って
本当に幸せだなと思ったりしてた。

たくさんの変化が一気に来るわけではないように
私の中の変化も徐々に徐々に起こっていったのだと思う。
日々、何かに不満があるわけではなかった。
だけど、なにか違うような気がしていた。

店舗も増えて
人数も増えて
いろんなことがとても、組織的になった。

新しい試みについての話があるたびに、その先にある何かしらの変化に
不安と、期待と
そんなことの繰り返しの中で過ごしていた。

休暇をとってゆっくりして、もう一度自分を取り戻すために必死になったりもしたし
ただ漠然と、なんとなく過ごしている期間は、なかったようにも思えるんだけど
それが何なのかは、私もよくわからなかった。

社長と一緒に過ごす時間も以前よりはだいぶ減って
時々会うときには、何を報告するべきなのか、少しずつ悩むようにもなった。

その頃母親の病気が発覚したりして
精神的にとても不安定な時期が続いた。
人には言えない、言いたくないいろんな感情が私の中でグルグルと回ってた。
だから、もう続けていくのは難しいのかな・・・・って、思ったりもしてて
一度そう思うと
なかなか前向きになるのは難しかった。
社長にも、そんな気持ちを伝えてみた。そのときは、メールだったんだけど。

その頃の詳細は、
いろんなことがありすぎて正直、詳しくは思い出せない。
割と、自分の精神状態がひどかったからか
思い出したくないだけなのかもしれないけど(笑)

いろんなことがあって
いろんな決断が必要だったんだけど
社長が自分の店舗を持つように、提案をしてくれた。
前から、恵比寿に思い入れがあった私。
恵比寿に本社を出そうと何度も言っていたんだけど
だから、
恵比寿に自分の店舗を出して、独立したらいいと、薦めてもらった。

そんなことがめまぐるしく起こってた時期だったから
その間に日進とか、浦安とか、いろんな店舗がオープンをしてたのに
私は、社長に娘の写真を撮ってほしいということができなかった。
私の中ではそれが本当につらくって
国分寺のオープンのとき
本当に久しぶりに、お願いをした。

それが、この写真。



自分の子供だから、当然どれもものすごくかわいいんだけど
かわいいとかそういうことよりも
私の中で、何かが変わった日だったように思う。




ただ撮影をお願いするだけのことだと思うかもしれないけど
私の中では、そんなに簡単なことではなくて
新しい店舗だから撮影をしてほしいとか
たぶんそんなことでも、ないのだと思う。

社長と今まで、必死で仕事をしてきて
自分の中にある壁をなんとか越えたいと思ってた。
どうしたらこえられるのか、そんなことはまったくわからなかったんだけど
それでも
社長の提案を、ありがたく受け入れたいと思った。
だから、恵比寿に店舗を出す決意をした。
それが、私にできる最善だと思ったから。

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10.最初の変化

2号店のオープン後
私たちは大きく変化したように思う。

郊外でも可能なビジネスモデルだということ。
自分たちである程度の工事が可能だということ。
所沢店のビフォーアフターが大きな証明になること。
撮影の幅が広がったこと。

他にも
本当にいろいろな面で、内部に集中していこうという方向性ができていった。
フランチャイズも
もともとは知り合いや、お客様や、スタッフや
私たちが準備して展開をしたというよりは
最初から必要に応じて展開がなされてきた。

だからその後の水戸店、名古屋店
そして成城店、横浜店までの店舗展開が急速に進んだ。

成城店のオープンは2008年5月。
私のバースデーに、娘の写真を撮ってもらった。



お気に入りの、1枚。
この写真をみて、ずいぶん丸みが落ちたなあと思ってたけど
そうでもないですね・・・・・・・・・笑

横浜店での撮影は
まさに子供の心を捉えていて
娘が遊びたくて仕方なかった。

それを押さえ込んで撮影をすすめた。



この日
久しぶりに社長に撮影をしてもらった。
横浜の店舗は
広くて空間的にはとてもすばらしいと思ったし
私たちが今までやったことのないいろいろなインテリアが作られた。
とっても新しくて新鮮な気持ち。

撮影の日は
ちょうど2件の撮影が重なってて、社長が忙しく撮影をしてくれたんだけど
全部の部屋で撮影しようといって始めてくれただけに
時間が押したりいろいろあったんだけど
それでも
社長が思いをこめて撮影を進めてくれているのが、とてもよく伝わってきた。

娘も大きくなって
いろんなことを、指示通りにしてくれるようになっていた。
大きな変化を感じ
とても、心に残る撮影になった。

横浜店のオープンのときは
スタッフの人数もだいぶ増えて
第三次世代とも言うべき、新しいスタッフたちがたくさん入ってきた。
全体ではこの辺すべて一くくりになってるけど
私の中では第二世代は所沢のオープンを、共にスタッフたちまで。

たくさんのスタッフがやめていったんだけど
それでも、
そのときの教訓が、私にはたくさん残っている。
スタッフを育てるということ、
人との関係をつくるということ、
大切なところにポイントをあわせるということ
そういういろんな部分を、真剣に考えるようになった、とても大切な期間だった。

だから2008年の後半から、全体で会議をするようになったし
そこで本を読んで討論をするようになった。
まだ店舗も少なかったし
本社の人数が圧倒的に多かったし
いろんな意味で統一して進めていくことが容易だった。

本を読んで討論・・・・という形式も、難しいけど、とてもいいことだと思った。
みんなが1冊の同一の本を読んで
同じ題材に対しての話をすることによって、考えの違いとかが、明確に見える。
だから、とても希望を持って進めていた。

2009年からは私は全体の教育担当になって
以前まで受け持っていた総括の仕事と同時に、教育により力を入れるようになった。
だから、
当初は3〜4人で進めればいいと思っていた教育チーム。
毎週火曜日に集まりをもっていくという、かなりハードなプログラム。
そこに、なんと10人のスタッフが参加してくれた。
名古屋からわざわざ自費で集まりに参加してくれるスタッフまでいた。
そこで様々な試みがあったし
とても、特別な時間だったように思う。

そして途中
コーディネートとかにもっともっと力を入れていきたくて
コーディネートの教育なんかをしたりもした。

そのときにモデルとして娘や娘の友達を使ってもらい
斬新なコーディネートでとっても楽しい撮影のひと時を過ごしたりした。

そのときに七五三の髪型とかもいろいろやって
友達と一緒に写真を撮ってもらったりもした。



七五三の写真ちゃんと撮れなかったけど
2歳9ヶ月で撮った、コンサル先での七五三と
4歳になってから撮った、コーディネートのモデル撮影。

それでも時間がすぎてしまえば
実際にそのとき何歳だったかなんてあんまり関係なくて
やっぱり、かわいい。

スタッフもみんな、とてもよくしてくれるから
娘はスタッフが大好きで
よく家に遊びに来るスタッフと遊ぶのが大好きだったな。

自分の仕事にも少しだけ余裕をもってできるようになって
この頃はやっと、日曜日とかお休みちゃんとして、娘と過ごせるようにもなってた。

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9.2号店のオープン

一気にオープンまでのことを思い起こしたら
これだけ書いても書ききれないほど
本当に毎日毎日ものすごい、濃厚だったんだと、改めて思う。

すぎてしまえば‘いろいろあった’で済まされてしまいそうなこと。
だけど
その‘いろいろ’こそ、私をつくりだす大切な要素なんだと、思う。

青山での日々、
そして2号店は、所沢。

2号店をオープンしようとした経緯もまた普通じゃなくて、
いろんなお話をもらって、その話がものすごくいい感じで進んでいるように感じていて
だけど
最後にまた、同じように
何らかの理由で流れたんだった。

そのときはちょうどコンサルティングをしたりもしてて
東京と静岡、名古屋を行ったりきたりしていた。

‘じゃあその次は?’
それが、いつも社長の口癖みたいなものだった。

この先どうするのか?
どこに向かうのか?
どんな人に出会うのか?

いろんな話があって、そこに集中してその先をイメージしていく。
たくさんの提案もして
その中で自分たちが実現可能なことを考える。

翻訳をしながらいつも思った。
いつもいつも、提案が新しい。
だから、読んでてすごく、楽しい。
だけど、すごく新しいのかなんなのか、
固定概念なのか何なのか
‘あなたと一緒にやりたい’と言われ、それにちゃんと答えたくて準備をしても
結局はなくなっていく。

まあ、ビジネスなんてそんなものなのかもしれないなと、今は思う。
そんなに簡単にいろんなことが決まっていくものではないのかもしれない。
それなら
私は、少なくとも私が社長に出会って過ごしてきた間のいろんな決断は
割と早い決断で社長にとっては、割とよかったんだろうなって、思う(笑)

そんないろんなことが、そのときもあって
2号店を出そうと、自分たちで決めた。

思い起こせばこの2号店の準備をしながらも
また、同じように不動産周りを1ヶ月以上もして
どこの地域に出そうっていうのが全然決まってないと
不動産めぐりも本当に果てしない・・・・終わりのないゴールを目指す・・・的な感じ。
だけどもう、不動産にはいっていう言葉とかは完全に覚えてる感じになって
私たちもなれていく。

この頃は私以外にもスタッフがいて
最初の頃は全員韓国語OKのスタッフたちしかいなかったから
順番に不動産を回った。

順番っていっても、メインは妹だったんだけど
ある日妹と一緒に不動産を回ってる社長から電話がかかってきた。
なにやら所沢のほうでいい物件があってそこを見に来てるんだけど
ものすごく気に入っている様子。
部屋数も多いし原状回復もいらなくて
こんな物件めったにない・・・・といってる。

でも場所を聞いたら、まあ、そこはないかな・・・くらいにしか思ってなかった。

だけどご存知のとおり、2号店はここに決まった。
最初にこの店舗を見に行ったとき、廃墟だったこの物件は、本当にすさまじかった。
社長以外の誰が、この物件を見てワクワクするのだろうか・・・・

娘を連れて行った私は、玄関を開けた瞬間驚いて
娘を玄関先にとどまらせ、妹に見ているように頼んだ。
夏だったので、タオルを片手に口を押さえ
恐る恐る、中に入っていった。

あらゆる荷物がそのまま置き去りにされ、そのまま何年放置したら、こんなにほこりってたまるんだろうな・・・・と、思う。
あんな家(ごめんなさい)はじめてだった。
契約したらここは片付けてくれるという。
そりゃそうだ・・・・と思う。

物件を見て
当時スタジオにいた4人と、娘と、社長と、私で、バーベキューに行った。
そこに行く途中
あの物件の何がメリットかについての話。
うんとはいえない、なんともいえない気持ち。
でも、数日後にメールで報告書が届いた。

社長の中ではすでに決定していた。
あの物件を、どんなスタジオにしていくのか。
デメリットは、場所のみ。

だけど、それが必ずカバーできる。
私もそう思う。いつかは、カバーできるはず。
どれくらいかかるかは、わからないけど・・・・そんな、気持ち。

社長の決定により、事が進むのは早かった。

銀行や国金やいろんなところに回ってお金を借りる手続きをした。
これだって生まれてはじめてのこと。
相場とか、常識とか、いろんなものがない私(笑)
担当者にびっくりされただろうなと、今は思うけど
とにかくお願いをした。
金額だって、これくらいが限界と言われながらも
いやいや、お願いしますといって倍にしてもらい
その審査だって、なんとか通ったから軌跡だなと、われながら思う。

私には神様がついてる。
そんな風に自然に思う。
それほど、奇跡的なことが続く。笑

決定して、インテリアが始まる。
韓国から力強い夫婦が、スタッフとして来日した。
社長と、2人と、妹のほぼ4人で工事が始まる。
私は、そのほかのことを整えるべく、毎日必死。

部屋の割り振りをしていく。
そして
お部屋を壊してひとつにすると言い出し、それなら不動産やに一度連絡して下さいと伝えると
もうやってしまった後だったりする。

不動産に電話をして、わびる・・・・・

でも
「あ、いいですよ、家が壊れなければ」

あ、そんな感じなんだな・・・・いいな・・・・笑

それぞれの部屋の、大まかなイメージが決められていって
私は、衣装室と、美容室の2つの部屋を任せてほしいと、お願いをした。
青山のオープンのとき、何もわからずに社長に落胆されたことを覚えてる。
もっとちゃんと準備をして
もっとちゃんと、認められる何かを作りたかった。

着々と進んでいく工事。
たまに顔を出すと、私が担当している部屋だけ何も進んでいない。
私が支持を出さないから、何も決まらないんだ。
頭の中にあるイメージを形にしていくのは、簡単ではなかった。
だから、大まかな工事・・・・こういう感じの板をひいておいてもらうとか、
こういう壁をここに立てておいてもらうとか
そういう感じで支持を出す。

どのくらいの厚みで?
どんな素材で?
どんな高さに?

そんな質問されても、全然わからないから、適当に答えるしかない。笑

それができて、また店舗に行く。

その後は、イメージがあるだけだから、ひたすら自分で塗ってみる。
ペンキを薄めて、スポンジで叩き込む。
かわいたら、また繰り返し。

そんな風にして、できた。
今はもう所沢もだいぶ内容が変わってきてるけど
最初、美容室だったその部屋は、青山の、当時のモニター室みたいな雰囲気がお客様に人気で
私もすごくいいなと思ってたので、そのイメージの、ナチュラルなお部屋。
そして隣の衣装室は
基本的に撮影をしない部屋だったから、完全に私の好みでダークグレーを縫ってもらった。
天井も、全部。
そして床も、こだわって画像を見せたりしながら、知り合いの、今もずっとお世話になってる
ペンキ屋さんにお願いして、素敵な床に仕上げてもらった。

リサイクルショップを回り
フリーマーケットを回り
ギフトショーに行き
そんな風にしながら、準備を整えていった。

スタッフだって募集しなくちゃいけなかった。
だけど、まだ完全に無名だし
どこでどんな風に求人をしたらいいのかわからず。
美容部員がなかなかいなくて
どうしたらいいのかわからなくなって、涙が出たりした。
最初のオープンとは全然違った悩み。

どうしたらいいかわからないし、困ってしまってゆっくり考える時間が必要に思えた。
だから、突然思い立って青山店に泊まることにした。
でも、化粧品がない(笑)
ちょうどいろいろ買い換えたかったしナ・・・・と思い、渋谷に出る。
なんとなく・・・フラフラ歩いてたら声をかけてくれた美容部員さんと仲良くなって
フルメークをしてもらった。
テンションがあがって、気分が楽になった。

店舗に戻り、パソコンに向かう。
とにかく、やれることをやってみよう。

mixiに入り、求人募集にいくつもトピックをあげた。

そんな風にして、できていったスタジオ。

オープンのパーティーは3回にわたった。

最初は、私たちの家族が集まり
次は写真館関係の人たちを招待し
そして、仲良しのお客様。私たちがファミリーと呼んでいる、お客様を3日間にわたり、ご招待。

今思えば本当に初期の初期。
今一緒にスタジオをやってくれてるいくつかの店舗も、そのとき所沢に来てくれていた。

水戸、名古屋、横浜、新松戸・・・・・・あの時は、そんな展開全然考えてもなかったのにね・・・・

青山店が、ちょうどこの頃から安定し始めた。
予約も徐々に、コンスタントに入り始め
それまでのお客様すべてに、DMを送った。
2号店のオープン。
心をこめて、すべてのお客様のデータから1枚ずつ写真を選び、
その写真を透明の袋に入れて、住所をはり
そして案内と一緒に、郵送をした。

社長の、気持ちが伝わる。
お客様一人ひとり、すべて違うお客様であって
大勢のお客様のうちの一人・・・のような扱いはしない。
だから、ものすごい労力をかけて、全員、すべてのお客様に、お客様の写真を、送る。

2号店のオープン時
来店してくださったお客様は90%以上がリピートのお客様で
ちょうど1年前に私が担当させていただいた方が多かった。
だから、ものすごい嬉しかった。
成長も見れるし、喜んでくださってるし
青山よりも数倍大きな規模で、中に入っただけではすぐにその大きさがわからないつくりなだけに
移動のたびに、お客様から感嘆の声が響く。

伝わった。
私たちの思いは、伝わった。
そう思った。

広い店舗。
朝の掃除だけでも結構大変。
だけど、毎朝一緒に飲むコーヒーが、とてもおいしくて
大好きな場所が、またひとつ、増えた。

オープンして最初はリピートのお客様が年末にむけ、たくさん来てくださった。
だけど
年越しをしてから半年間は、本当に厳しい時期だった。
スタッフの入れ替わりがとにかく激しく
自分たちで作ったチラシを毎日駅前で配ったり、近所の家に配布して回ったりしてた。
青山が少し安定してくれたおかげで
2号店の売り上げをそこまで大きく気にしなくても、なんとかやっていけるだけの余裕があった。
ありがたい。

大変な中を必死で切り抜けていくのは、
精神的にも本当に疲れる。
だけど、
青山のときは完全に孤独でやってきただけに
2号店は、それでも任せているスタッフがいて
私はサブで集客をすればいい状態だったからか、気持ちも楽だった。
日々、いろんな試行錯誤。
2号店でももちろん、mixiからたくさんのお客様が来てくれた。

ちょっとだけ笑えるエピソードだけど
娘がちょうど、七五三の年だった。
だから、所沢店に衣装を入れるとき、ふんわりドレスが似合わないと思った娘のために
私がデザインしたドレスをつくって入れていた。
みんなすごく喜んで
今でもスタジオの人気の衣装であることは間違いない。

お休みの日に社長と3人で店舗に向かい、
そこで、娘の写真を撮った。
私服での撮影は普通に楽しく撮影してたけど
いざ、ドレスを着させようとしたら、チクチクしていやだという。
娘は、極度の敏感肌。
特に肌に異常があるわけでも乾燥しすぎたりしてるのでもないんだけど
タートルもだから絶対に着ないし
ある日突然、洋服についているタグをはずさないと気になって着られない。
何度もイライラしてけんかになりそうなことがあったけど
まさかの、ドレス。

着物を嫌がる子供は多く見てきたけど
ドレスがいやだといって着れない子供は、初めてだった(笑)

あまりの驚きと、衝撃と、ショックと・・・・笑
お客様なら冷静に対処できるけど
わが子となると全然無理で、取り乱す私。

実はコンサルをしてたときに、一度、着物を着せて撮影をした。
それがかわいかったから絶対に・・・・と思っていたわけではないのだけど
それでも自分が作った店舗なだけに、もちろん思い入れがあるし。

衣装室で腹がたって思い切り娘を怒った。
そしたら社長が来てなだめられ
もう私の役目はコーディネートのみに、変更。
そのあとは、社長が娘と二人で撮影をしてくれた。

撮影中、落ち込んでる私だったけど
最後に写真をみたら、反省。
途中、「おまえが思ってるよりよく撮れてるから安心しろ」と、言われた。

すみません。
お気をつかっていただいて・・・・

そのとき撮った写真。



すごい好きな写真で
家にもフレームにして飾っている、お気に入り。

コンサルをしてたスタジオでその前に撮った、七五三。



そして、その後に撮った、名古屋でのお気に入り。



娘が嫌がって期待通りにならなくても
こうして振り替えってみると、本当にかわいい姿が、たくさん残ってる。
思えばあの頃は
仕事忙しすぎて
娘に怒ってばかりだった気がする。
いろんなことに余裕がなくて
だからきっと、撮影中もイライラしちゃったんだと思う。

何度も何度もそんな時期を通過して
今だからこそ冷静に思えることも、ある。

久しぶりに写真を見返して、
写真のもつ思い出の深さと、その感動に、改めて、浸ってみる。

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8.オープン
いろんな常識不足と
負けず嫌いな性格と
あったかい周囲の手助けと
それから
かなりの強運のおかげで、いろんなことが、可能になってきた。

改めて思い起こすと 
何がすごいって・・・・・
だまって(は、いらっしゃらなかった気もするが)
見守っててくれた社長がすごいなと。

そして
私のことよく理解してるんだなと、思う。

スタジオメモアのオープン。
2006年の、12月。

年賀状用の撮影します〜ってお客様を送ってもらい
そこからはじめた、スタジオ撮影。
なんとかかんとか無理やりな感じでオープンまでこぎつけた?!けど
当日
ふと思いついた・・・・おつりの用意がない・・・・

だけどまだ、口座もできてない。
だから、お振込みをお願いします。って、ことになった。
それも、口座ができたらご連絡します・・・って(笑)

お客様はただで年賀状の撮影ができますよ〜って来店してくれて
撮影して
なんだかよくわからないまま、モニターして
喜んでもらい
原本を買ってくださった。

初日は全員データ買い。
かなりの緊張。
だけど
社長の撮影だったから、私は自信をもってお勧めする。

衣装だって全然なかった。
インテリアも
ほとんどないに等しい空間。

やれるだけのことを必死でやって
こんな空間で
こんなものが作れるんだって
カメラのこととか全然知らない私は、モニターのたびにドキドキしてた。

かわいい子供たちが毎日来て
日々、緊張。
そして、ホームページの写真も素敵な写真がどんどん増えていった。

なんだか毎日ドキドキしているだけに
毎日とっても幸せだった。

娘が韓国でいなかったから
同じくらいの年の子達の撮影をするときは
なんだか泣きそうだった。
娘の写真を撮ってもらいたいな・・・・毎日そんなことを思いながらの時間を過ごした。

そして、次の難関がやってきた。

予約を取らなくちゃいけない。

年賀状の撮影は50件くらいが来てくれた。
だけど、その先は?
その人たちが次に撮影に来てくれるまで待っているわけには行かない。
だから、営業をして来いといわれ
最初に作った撮影無料券みたいなものをもって、町に出る。

もちろん置いてくれるところはたくさんある。
だけど
すぐにお客様が来てくれるはずがないから、なんとかしないといけない。

広告うつほどのお金はないし
どうしよう〜〜〜〜〜

こうみえて、営業嫌いな私。
A型なんです、私。
断られるの、無理なので
接客は、かなり得意。だって、私がいるところに、望んで入ってきてくれてる人たちだから。
だけど、何も知らない人に自分から行って、断られるのは、割ときつい。
というか
かなり、きつい。

だけどそんなこと言ってられない。
スタジオにいると
社長に言われる。何をしているんだと。

日本語しゃべれるの私だけだし、そりゃそうだよね・・・・・・・・・

眠れない日々が続く。
どうしよう・・・・
どうしたらいいんだろう・・・・・・

とりあえずできることは、友達を呼び集めること。
そこで、社長に写真を撮ってもらった。
たくさん友達が来てくれて
写真を撮った。
そんなことを繰り返していく中で
バイトしてたときの店長が来てくれた。

「こんなの、mixiで宣伝したらすぐだよ〜」

mixi。
登録だけして、全然触ったことない。
だけど、それならやってみようかな。
営業いくのやだしな・・・・

なんて
そんな気持ちで、毎日毎晩
mixiを触ってみる。
よくわからないまま、コミュニティに参加してみる。
そして、イベントを立ち上げた。

次の日からものすごい、電話。
「mixiのイベント見たんですけど」

はあ。
一安心だ。
これで、年内の予約は全部埋まった。
なんてすばらしいの、mixi。
そして、店長愛してます。

火曜水曜がお休みだったけど、毎日お休みなしで予約を入れた。
たくさんのお客様が来てくれて
みんなとても、喜んでくれた。
マイミク申請が来たりして
とても、嬉しいことだった。

年明けは3日から営業にして、
2日間は休もう〜っていってたんだけど、
休みの日にイベントして、当日の売り上げを分け合うのはどうだという話になった。
なんだか楽しくなって盛り上がり
お正月も営業。

お正月の2日間はいつもよりも売り上げが断然よくて
私はその日2日間の営業でスペシャルボーナスをいただいた(笑)
2日の夜は
みんなで食事に行って
私のおごり〜

楽しい日々。

そして、待望の、娘の帰国。
迎えにいけなくて、母親が連れて帰って来てくれた。
空港に迎えにいったとき
娘は私をみて両手で顔を覆った。
嬉しくて、顔を覆って喜んだ。
泣けた。

お休みの日に、娘を連れて撮影に行った。

その頃はスタジオの1階に住んでいた社長。
特別連絡しないで行ったんだけど
着替えをすませ、裏で仕事をしていた私。
簡単に撮ってもらうつもりでつれていったから、1回目の着替えで終わりだと思ってた。
そしたら、着替えを4回もしてくれて、
しかも、まだ撮ってるの?と思うくらい
しっかりと、撮影をしてくれてた。

モニターをする前に、言われた。

「オレはあいつが好きみたいだ・・・全然削除ができなくて、すごい枚数になった」

え〜嬉しい〜〜なんて思いながらの、モニター。
枚数は
まさかの200枚超え。

私、正直割と娘の表情とかいろんな部分をシビアに見るから
原本とか買わない派だと思ってた、自分のこと。
だから、お客様が厳選して数枚買っていきますというと
そうですね、って、どこか納得してしまう部分もあり。

だけど、本気で選べないと思い
娘の写真をみながら、心から、幸せだった。

社長からのメッセージを感じた。
それも、嬉しかった。



この写真は、私の本当にお気に入りの、1枚。



社長の写真が、本当に好き。

いっぱい泣いて
いっぱいがんばった。
このために、っていえるほど、大切な、思い。

そんな気持ちでいっぱいだった。
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7.新しいスタート
最初はあんなに怪しいと思ってた行政書士様様で
入国可能になった社長。

そして
準備を進め
最終的にビザが下りるまでの期間がどれくらいだったのか、覚えてないけど。

でも
無事にビザが下りて
社長にその連絡をしたときのドキドキ感とか、すごかった。

いざ、ビザが下りて
社長の入国日が決まったときに
私は韓国にちょっと別の用事で行くことになった。
それを社長に行ったらね、社長から言われた言葉。

「明日韓国に来たら話があるから」

「え?なんですか?」

「来たら話すから」

「まさか結婚するんですか?」

「いやいや・・・・」

そんな会話。
この場に及んでなんだろう。
いきなり日本行かなくなったとか??そんなはずないし・・・・なんだろ・・・・

割と気にしいなので、私。

教えてくれないなら、今話しがあるとか言わないでほしいわ・・・
明日会ったら言ってくれればいいのにね・・・・

なんて。

そして次の日
会ってすぐに聞いた。
全然検討がつかなくて、考えてもまったくわからなかったから
余計に気になった。

「昨日の話って何ですか?」

「ああ、サガナムやめることにした」

え?
今なんて言いました????

「サガナムやめることにした」

なぜ??

日本に帰ったらゆっくり話すけど。

なんだそりゃ。

でもそのときは、私、別にどっちでもいいというか
まだことの深刻さに全然気がついてなかった。

やめるときの条件に
私は社長と一緒にやめることになってたから
まあ、それならいいかなと、漠然とそんな風に思ってた。


社長が韓国にいる間
9ヶ月だったんだけど
日本ではいろんなことがあった。

まず、デザイン室を立ち上げてて
事務所は恵比寿だった。
恵比寿4丁目。

私が恵比寿が好きで
だから、恵比寿で探した。
ただそれだけの理由。

マンションの一室をデザイン室というか、事務所にしてた。
そこに、韓国人の、日本語のしゃべれるスタッフが一人住んでた。
そして共同オーナーの一人も日本にいて
私がいて
日本でデザインの学校に通ってたデザイナーの女の子が一人。

そこでわりと、十週箇所のデザインオーダーとか受けながら、仕事をしてた。

その間に
いろんな人が社長の写真に興味を持ち
社長にあいたり
いろんな可能性がたくさんあった。

日本に社長が入国したら
どれをやろうかと、イロンナ話をしていた。
だから
入国後はものすごく、忙しかった。
いろんな人に会いに行き
いろんな可能性を見つめながら
過ごした。

だけど
最後にはいつも、でもな・・・・韓国でいくらうけてもここは日本だし・・・・

なぜか、そんな感じだった。


業界のこととかまったくわからないし
経営とかもわからない。
だけど
普通に日本で子育てをする母親として
絶対に、うけますから。

そういいたかった。
センスなすぎる。みんな。
なんなの、人のことなんだと思ってんの。

散々盛り上げておいて
最後にその切り方。

今思えば、笑えるくらい、絶望感みたいな。

恵比寿にいたから
社長と、よく恵比寿を歩いた。

この物件いくらだと思う?
ここでスタジオやるならどういう内装になると思う?

いつもそんな質問。

全然わかりません。

私の答え。笑

もう、毎日そんな感じで
社長はやる気満々で入国してる分
どんどん、気持ちが焦る。

ある日思った。
自分たちでスタジオ出しましょう。

っていってるけど
私は、何もできないのだけど。
お金もないし、何もないし、何もわからないのだけど。

でも
もう屈辱的すぎてなんだか耐えられなくて。
なんなの
それなら絶対自分たちでやって成功するから
あとから後悔しないでよ。

そんな気持ち。

8月にそんなこと言いはじめて
9月くらいから不動産を回り始めた。

イロンナ場所。
本当にイロンナ場所に行った。

郊外というか
中心から離れたら、当然安い。
だけど、こんなところで人が来るのかな・・・

中心部で探すと
金額が高い。
こんなお金用意できるのかな・・・・
サガナム、やめちゃったしな・・・・

毎日そんなことの繰り返し。

社長は食事にうるさくて
本人曰く
うるさいのではないというのだけど
私が社長とけんかをするとき
半分くらいは食事関連だった気がする(笑)

ある日歩いてて、ランチは韓国料理がいいといわれた。
だけど、その近くに韓国料理があるのかどうか全然わからず
ひたすら歩きながら探したんだけど、なくて。

ないから、いろいろ見てて
どこにしようかな・・・・って、思いながら歩く。
そしたら、もうおなかがすいたし足も疲れたから、どこかに入ろうといわれた。
私に好きなところに入れだって。

だから、
近くにあったパスタやさんに入ろうといった。
そしたら、切れる社長。

いきなりすごいケンマクで怒るから私も腹がたって
「だったら自分で決めてくださいよ」と言い返す。

結局社長、ものすごい怒ってるし
私も毎日こんなんだから、もう限界なんですけど〜〜〜

「じゃあもう好きなとこで食べましょうよ。ランチなんて毎日一緒に食べなくちゃいけないわけじゃないし。」

そしたら一言。

「バラバラに食べよう」

そして行ってしまった。

その後姿をみながら、悔しくて悔しくて、涙があふれてきた。
あまりにも涙が流れるから
気まずくて近くの駅のトイレに行った。
そこで、電話がなる。

「今どこにいるんだ」

「駅ですけど」

「じゃあ駅に行くから」

外に出ると社長が立ってる。
どうやら、私が聞き間違えたらしく、社長はバラバラで食べようとはいってないと主張。
私がついてきてると思って歩いてたのに
振り向いたらいないから、電話したんだって。

私が泣いた跡をみて動揺する社長。

気まずいし、微妙だし、私だって逃げ出したい。
こんなの生まれて初めてだし
もう少し気を使ってくれたっていいじゃん。
自分が好き嫌いありすぎなんだし、なんで私が怒られなくちゃいけないわけ?!

内心、こんな。

だけど
自分が私を置いて、バラバラに食べようなんて言う訳ないだろ・・・・と。

これからは
私の言うように、たまには別々に食べるようにしよう。
だけど
オレはまったくわからないんだ、日本の食事が。
どこに入ればいいかも全然わからないし
韓国ではパスタなんて食べるものじゃないと思ってたし
どうしてわかってくれないんだ的な。笑

そのあと
ラーメンを食べて(笑)
普通にまた、不動産見て回ったし。

もう、そんなのの繰り返し。
いい加減
いつまで不動産見るんだろう・・・・・
そんな感じ。

不安も多いけど
日々のなんだろ、積み重なるストレスというか
申し訳なさというか
そういう感じ。

不動産を回りながらも
スタジオの内装とかいろいろ
資料を探すように言われたり。
で、私なりに、いろいろやったの。
思いつくこととかは、全部。

だけど、会議をして
それを出したらやっぱり落胆されて。

「もうお前には期待しない。」

この言葉が
本当に痛かった。
悔しさと、腹立ちと
なんだろ、あんまり言われたことのない言葉。

だって
はじめてなんですけど。
どこまでが私の仕事なんだか全然わからず。
何を求められてるのか、全然わからず。

それと同時に、娘のこともこの頃には心配になって。
両親が仕事の関係で実家を離れ、遠くに住むことになった。
だめともいえず
私がそっちに行くこともできず・・・・という環境の中
果たしてスタジオができたら娘はどうなるんだろう・・・・・・って。

もちろん社長に相談もした。
だけど結局何もない。

不動産も同時に探す。
いい物件が見つかって
それは青山一丁目だった。

80万円。
だけど、最高。

ここにしようって、社長が言った。
テンションがあがる。

だけど、突然、現実。
保証人から始まって
いろんなことが現実的に出てきて
知識のない私。社会経験のない私。
初めてで考えたことないようなことがたくさん。

いろいろあって
社長に聞かれた。

「お前がこの家賃払えるだけ客をつれてくる自信があるなら、ここを借りよう。」

そこではじめて認識する。
そうか・・・・
スタジオ始めるって、そういうことなんだ。
私がやらなくちゃいけないんだ。
お客さん集め。笑

今思えば本当に申し訳ないことしか、ないのだけど
あの頃はよく、こんな私と共にスタジオ出そうと思ったな、社長・・・・という感じ。
感謝・・・・・・・・・・・・

そのあと
もう少し探そうということになり
不動産をやってる弟にもう一度連絡をして
青山にある知り合いの不動産を紹介してもらった。
そして、その子ががんばってくれた。

いろんなラッキーの連続で、店舗をみつけ
なんとかかんとか、そこで契約。

工事もなにもかも
全然つてがなく
兄弟にいろいろ紹介してもらって
紹介の紹介で、いろいろ無理を聞いてもらって
それで、なんとか形になった、青山の1号店。

オープン当初はスタジオメモアだった、あのお店。
だから私は自分の会社をつくるときに、会社名をメモアにした。
メモアって
私のアメリカにいる友達が考えてくれた名前なんだけど
直訳すると、伝記とか、そんなのなんだって。

ロゴにしやすいとか
聞こえがいいとか
イロンナ理由で、この名前にして
韓国にいるイロンナ人の助けにより
ホームページもできて
あわただしく進む準備。

仕入先も何もわからない状態で
本当に運よく偶然の連続で私は、なんとかイロンナ場所を探してきて
通常よりはたくさん、卸価格でいろんなものがそろえられた。

そして、
不動産を探している途中で社長に訴えた、イロンナ思い。

娘のことも何もかもが不安で
社長の考えが知りたかった。
でも、かえってきた答えは、「自分で決めろ」

今思えばそりゃそうなんだけどさ。

あの頃は
社長がそんなの決めてくれるくらいに思ってた。

いっぱい泣いて
悔しくて
決めた。

娘を、韓国の妹のところに預ける。
妹も、理解してくれる。
なんとかやれることをやっていこうと思った。

まだ小さくて
2歳だった娘。
私が日本に帰る前日、寝かせようとしたときに娘を見てて泣きそうになった。
そしたら娘に言われた。

「大丈夫だよ」

今思えば、2歳半くらいの娘が、何を思って私にそういってきたのか。
だけど
あまりにびっくりして、泣いてしまったんだ。

日本に戻ってくると忙しくて、寂しさは感じなかった。
だけど
夜になると電話がくる。
娘が泣いてる。小さいから、当然のこと。
なんともいえない気持ちになる。
だけど、今は仕方がない。
今から帰るねというわけにもいかないんだから。
気持ちを、強くもつしかない。
私が決めたことだから。

さっき書いたけど、社長に「もう期待しない」といわれた言葉が
なんだか無性に、悔しかった私。
基本的に、人には期待されてなんぼだと思うし(笑)
私は
常に期待以上のことをするにはどうしたらいいのかを考えたりしてるだけに
本当に悔しかったのだと思う。

だから絶対に、がんばって、挽回したかった。
そのエネルギーだけが、私を、押し出してくれたのかもしれないな・・・・

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6.入国までの日々

5ヶ月して、休暇をもらった。
ケニアにいる主人にあいに行くことにして
1ヶ月。

アルバイトしかしたことのない私は
それが有給休暇だということを知って、心から驚いた記憶。笑

今は産休中の、後輩と共に
ケニアに行った。
娘も連れて。

3週間の旅。

インターネットが使えなかったから
帰る間際に、サイバーカフェに行った。

当時、MSNのメッセンジャーで仕事の連絡を常にしていた。

メッセンジャーに入ると
韓国のデザインスタッフから声をかけられ
元気??なんて気軽に話をしてた。

そしたら、
「社長まだ韓国にいるんですよ」といわれ
「なんで?なんか問題あった?」と、聞き返す。

この問題とは
韓国のスタジオでの、問題のことだったんだけど。

「いえ、一度日本に行ったんですけど、入れなくて戻ってきました。」

え?
どういうこと??

「とにかく社長が、電話で話がしたいと言っています。」

すぐに電話をかけた。

そしたら
入国拒否をされていた社長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本人だから
ビザのことなんて、何も知らない。

ビザは
契約先の社長さんが出してくれることになってて
申請も出してて
ビザが下りるまでの期間だけ、先に、観光ビザで入国をしてた。

まあ
契約先の社長さんも私同様、日本人だから同じなんだけど
頭の中が混乱してたから
とにかく戻って話を聞こうと、電話。
ケニアから何時に空港に到着するのかと聞かれ(韓国からケニア行きのチケットを取ってたから)
何時です・・・と伝えて切った。

3日後くらいに帰国。

あ・・・・

途中、ドバイの乗換えで気がついた。
社長に伝えた時間
現地時間・・・・しかも、ドバイからの出発時間じゃん・・・・

2時です〜なんて伝えてたけど
実際空港に着く時間は4時半くらいだった。

すみません。

待ってるとは言ってなかったけど
たぶん空港に社長がいるような気がしてた。
だから相当あせって外に出た。
そしたら
超イライラした苦笑いで、私を迎えてくれた。
やっぱり、3時間以上も、待ちぼうけ。
人生でこんなに人を待つの初めてだって、言ってた。

初めての人になりました・・・・・・・・・・・・笑

それから、
割と簡単に考えてたんだけど
思ったよりも運が悪く意味不明なことが続いたりもして
社長の入国はなかなか困難だった。

無知だったから
どうしようもできなくて
とりあえず、せっかく日本に基盤を作っていくことにしたからと
いろいろなことをした。

社長以外の、共同オーナーたちがかわるがわる日本に来て
私はその通訳として仕事をし
デザインアルバムの事業なんかも立ち上げて
展示会に出たりなんかもして
そこで出会いもあったり
それで一緒に韓国に見学にいったりと、いろんなことがあった。

毎日毎日
メッセンジャーで、社長と話をした。
あんなに毎日何を話してたんだろうと思うほど
ほとんど毎日話をした。

最初はのんきに構えてたけど
この先ビザってどれくらいかかるんだろう・・・・・・・って
漠然と不安もあった。
仕事、もうやめようかなとか
そんなことも毎日考えた。

思い出せないくらい毎日いろんなことがある。
生きているから、当然のこと。
だけど
家族バラバラで
なんだかこんな風に、社長もいないのに、いつまで私はここでこんな風に過ごしてるのかな・・・って
先の見えない不安に、押しつぶされそうだった。

社長にどうやって伝えようかなって
そんなことを日々思い
メッセで話しながら声を詰まらせたりね。

ある日思い立って
社長に話があるといってみた。

たぶん、社長もわかってたんだろうな。

「私は、社長と一緒に仕事したいです。社長がいないなら、続けられません。」

怒ると思ったんだけど、そのとき以外な答えだった。

「俺も一緒に仕事したいと思ってるから、もう少しだけ待っててほしい。」

そんな答えだった。
だから、びっくりして、泣いてしまった記憶。
もう少しがんばってみようかな。そんなことを思った。

だけど、ビザがいつおりるのか、人に任せておけなくて
ある日突然自分でネット検索して
行政書士の事務所に何度も行った。

状況を話してみると、相手は必ず難しいといった。
え??
今なんて??

難しいって、だって、犯罪者じゃあるまいし
そんなに難しいことなの??
外国人って
そんなに日本に入れない仕組みなの???何なのこの国。

母親に相談したら
入国管理局に相談に行こうといわれ
一緒に行った。

入管の人に話をしたら
「普通に、日本国民が聞いていて正当な理由であれば入国は認められます」

いいんだか悪いんだかよくわからない返答。
だけど、そっか、それなら社長は正当に入国できるはずなんて
そんなことを思いながら帰ったりした。

何人に会ったのか覚えてないほど
行政書士事務所に行った。

ある日
新宿の、事務所に行ったときに
状況を話したら言われた。

「全然問題ないですよ」

え??
問題ないの???笑

その人の軽いのりになんだか動揺して
大丈夫かな、この人・・・・って思った。
でも
可能性がなさすぎて、なんだかちょっと、この人にかけてみたくなった。

言われるとおりに準備して、成田よりは羽田がいい気がして、羽田に到着にした。
そして
一人で来るよりは私が一緒の方がいいだろうという判断になり
娘を連れて韓国に行った。

韓国にいる間
社長はカンナムに大きなスタジオをオープンしてた。
ちょうどそのオープンにあわせて渡韓して
一緒に帰ってくることにしてた。

韓国で
私のバースデーの1日前、スタジオに予約を入れて
娘の写真を撮ってもらうことにしてた。
初めての、ちゃんとした撮影。



案の定
モニターのときに、私は泣いて。

娘が韓国語わからなくて
韓国人のアシスタントにひいてしまって、泣くから
私が変わりに社長と撮影に入った。

アシスタントデビューした日。

見よう見まねで、必死。汗

撮影も無事に済み、
緊張の帰国。

飛行機の中、なかなか娘が社長になれず、ずっと人見知りをしてた。
空港について
私は入国審査の前で、あまりにも緊張しすぎていきなりものすごい吐き気がした。
こらえきれなくなって、トイレに駆け込む。

こんなの生まれて初めてだった。

娘を置いてきちゃったから心配で急いで戻ると
なんだか社長と急に打ち解けて、すごい楽しそうに笑ってる。

その後すぐに社長の番になって、入管の人になにやら質問をされてる。
日本語がわからない社長の変わりに
私はさっと娘を社長に渡し、早口で説明を始めた。

入管の人もびっくりした様子で説明を簡単に聞いてくれて
私に気を使いながら、とにかく少しお調べしますといって社長を別の部屋に連れて行った。

私は
社長から娘を渡されてだっこした。

そしたら娘。
急に社長のほうに行くと泣き出す。
さっきまでの人見知りはなんだったのかと思うほど
強烈に、引き裂かれた感じで泣いた。

いいタイミング(笑)

そのあと羽田空港の、外で
迎えに来てくれていた母親と、兄と、娘と4人で、緊張の時間。
会話も何もない。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
夜だし、他には人気がなくなった。

そのとき
中からさっきの入管のお兄さんが出てきた。

「もうすぐ出てこられますので、お待たせしました。」

今思えばメロドラマ風のこのシチュエーション。
母親もなんだか涙ぐみ
私は完全に泣いてて
社長もかなり照れくさそうに日本入国。笑

そんな風に、始まった。
2度目の、スタート。

あくまでも、そのときの入国はビザを申請するための必要書類を作るための、入国。
でも
いつまでも先の見えなかった「入国拒否」からは、逃れた。
だから
ものすごく、未来が明るく感じた。

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5.仕事はじめ
人生初めての、就職(笑)
アルバイトしか、したことのない私。 

初めての出勤は
片道2時間半。



笑えるんです、この距離が。

定期代、6万円。

まあ、だけど
1時間は東京駅からバスだったから
完全に眠れたんだよな・・・

朝も
8時に出ても、10時半についてて
だけど
そんな日々だった。

仕事忙しいときは
家に着くと、1時とかで
なんでかえって来てるんだろって思ったりすることも多く。

娘が
どんどん大きくなって
私が仕事を始めたから、娘のお世話は完全にじいじとばあばになって
初めて歩いたりとか
そういうイベントも
全部、妹とか弟とかの動画をみて知ったりとか
そんな日々が続いた。

娘は
すくすく育って、髪の毛も伸びた。

初めて
コンサルティングをしてた写真館に連れて行って
写真を撮ってもらった。

社長に、初めて撮ってもらった、写真。



すごく、簡単に撮影しただけだったんだけど
嬉しくて
泣きそうだった。



娘の、1歳。
1歳と、2ヶ月。

「ボーナスいらないので、娘の写真を定期的に撮ってください」

本気だったんだ。笑

5ヶ月間、この写真館で社長と共に過ごした。
いろいろあったけど
とても楽しかった。

夏は
花火大会があって、写真館にある浴衣を着せてもらって、みんなで花火を見に行った。
そのときの写真を撮ってほしかったのに
携帯で撮ろうとした社長が本当にいやで
ものすごく悔しい思いで泣きそうになったり。

だけどその後
都内で人に会ったあと
珍しく早く変えれる日があって
わ〜いって帰ろうとしたら、社長に夕食食べようと誘われ
内心がっかり・・・・笑

だってその日
他の人もいたの。
韓国から人が2人きてて
私がいなくても、3人いるから
社長寂しくないし・・・・と思い、たまには家に早く帰ろうとしたの。
そしたら急に
2人は遊びに行かせて、食事なんて言うから。

食事にはいって普通に注文して、普通に食事をしてたら
社長に言われた。

「今日はごめん」

思い起こせばその日は
社長と少し意見が割れた。
いつもなら、私が折れるんだけど、
その日はちょっと、社長の主張が自分勝手に思えたりもして
状況的に私が折れると、相手に少し、申し訳ない気がしたりした。
だから
日本ではこうなんですよね・・・・って
割と強気で私は反論したりした。

悪気はなかったし
特別それで、私は何も気にしてなかったのだけど。

社長が夕食に誘ってくれた理由。

私に、誤りたかったんだ。
そのとき初めて気がついて、びっくりした。

「これからもいろいろあると思うけど、ちゃんと話し合って、理解しあっていきたい」

「自分は、こんな人間だけど」

そんなことを、とても言いづらそうに話してくれた社長。

詳しいことは覚えてないけど
そのときの社長の言いづらそうな表情だけは、今でも覚えてる。
びっくりしたから。

そして
自分に不満はないかと聞かれ
私は
浴衣の写真とか本当に楽しみにしてたのに、本気で悲しくて
社長にとってはどうでもいいかもしれないけど
私はそういう人間なので、覚えておいてほしい的なことを、言ってた・・・・笑

いや
本気だったんですけどね。

その後も
私的には驚きの、ミスを何度かした。

正直
人と一緒に何かをするのは、本当に難しいんだと思った。
自分の中の最善が
人にとってはものすごく気分を害することもある。
社長のことを一生懸命理解しようと思ってたし
それが自分の仕事だと思ってたぶん、
私がよかれと思ってしたことが
時に、社長をひどく憤慨させる出来事になったりもした。

そのつど
私は涙を流した。
そして、社長にキレられた。

「自分はこういう人間だから、自分にはこうするな」

これが、社長の主張。
たぶん
人とは少し違う。

だけど
たくさん学んだと思う。
今でも同じような失敗はたくさんするんだけど
それでも
社長との日々は濃厚で
なんだか笑えるエピソードが山盛り。
仕事って楽しいなって
そのたびに悩みながら
たくさん、感じた。
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4.最初の決意
日本で約束をした、写真館の訪問。

ちょうど春休みの季節とかでチケットがなかなかとれなくって
なんか
3泊4日・・・か、4泊5日か・・・・
割と長くなったんだよね・・・・

だからその期間
今度は義母さんに娘を預け
韓国観光・・・・ではなく、写真館観光の通訳を勤めた私。

それまで
日本で社長の通訳をしたとはいえ
全然知らなかったんだよね、韓国のスタジオのこととかいろいろ。

だから一緒にスタジオを見て回り
システムや写真や
イロンナこと知るたびにすごくびっくりして
普通に
かわいいし
センスもよくて
なんだか本当に、魅了されていった私。

誰よりも私が日本に、こんな写真を撮るスタジオができてほしいな・・・と
純粋に、思う期間を過ごした。

毎日遅くまで通訳に徹して
帰りはタクシーでいいのだけど
社長が車で送ってくれた。
泊まってたホテルから家までが1時間くらいするの。
でも
ホテルの近くが社長のおうちだと聞いてたから
とても申し訳なくて
韓国はタクシーが安いから、タクシーに乗ってしまえば3000円くらいなのに
申し訳ないなあ・・・・と毎日思う。

だけどね
その車の中で、本当に、たくさんの話をした。
日本で
こんなスタジオがあったらどう思う?
こんな風にスタジオでやったらどう思う?

そんな話を毎日される。
私を送っていくために、社長は毎日お酒を飲まない。
それもすごく申し訳なかったんだけど
わりと、その時間が楽しみだったりもして
毎日毎日妄想が広がる時間。

毎日言ってた。

「それやるんだったら、私適任ですよ。」

「そうだろ。」

笑ってそんなことを話した。

社長と話せば話すほど、毎日毎日イメージが膨らむ。
なんだか夢見たいだった。
夢見たいな妄想なんだけど
現実的になんだかものすごく、現実の妄想が広がってる。

そんな信頼感みたいなものを感じる人。
それが社長なんだと思う。

最後の日
私は車をおりながら社長に言った。

「私、今年の6月まで日本にいるので、何かできることあったらやらせてください。」

7月には娘が1歳になるから
そしたら、主人のいるケニア?!に行こうと思ってたし
そういう予定になってたから。

その話をしたのは、2005年の2月。
まだ、5ヶ月ある。
だから、その期間だけでも、お手伝いさせてもらいたいなと、思った。

次の日
空港までお客様を送り
車に乗り込みながら社長に言われた。

「何か食べたいものはありますか?」

「社長さんはパスタとか食べますか?」

おなかがすいてて
入ったランチはプンシク。
韓国の軽食やさんみたいなところ。

私の思考回路では、社長のさっきの質問が理解できなかった。笑
で、
ラーメンを食べた。
韓国の、辛ラーメン。

ラーメンのおいしさについて語り
車を返しに行った。
大きな車を借りてたからだったんだけど
返しに行く途中
社長が急に車を止めた。

そして、質問をされた。

「これから、あなたは何を望みますか?」

そんな質問だったように思う。

日本からのお客様は
すっかり社長のことが気に入って
すぐに、スタジオコンサルティングの話が決まった。
日本に行く時期とかいろいろが決定され
そこに、自分がいることはあんまり考えられなかった。
人事に思ってたわけではないのだけど
現実的に、子供もいるし
主人は海外だし
いろんな人に反対されると思ったし
私、何もできないし・・・・くらいの気持ち。
だけど
それでもなんだか緊張する、ドキドキする時間だった。

何を話したか、詳細は覚えていない。
記憶力のいい私が
こんな大切なことを忘れるのも不思議なくらいなんだけど
そのときの話はあんまり思い出せない。

ただ、あの時言ったんだ。

「私には、人生の目標があります。社長と一緒にいると、その目標に向かう方法を、知れる気がします。」

確実にそう言ったのかは定かではないけど
その気持ちを伝えておきたかったのだけは、確実で。

今改めて思い出す。
それは
とてもとても、大切な決定だったんだ。
私が感じた何か。
社長と共に仕事をすることで感じる、何か。
それを、初めて感じて、人に伝えた、瞬間だったから。

そこから先は
驚くほど、順調だった。
私も驚くくらい
まわりの賛成があったから。

世の中不可能なことなんて、何もないんだな。
そのとき、素直にそう思った。

私の人生で
出会うべくして出会ったんだと、思った。
それが、社長との出会い。
だからこそ
ものすごく、責任があるのだと、思った。
それが、私の中の、決意の始まりだったんだ。
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